試論「笑いにとってつっこみとは何か」あるいは「つっこみキャラはなぜつまらないのか?」

昔、「爆笑問題カーボーイ」がまだ火曜UP'Sという枠だったころ、「番組が始まってからキリングセンス(現在は解散してる)のハギに電話して『今からTBSラジオのスタジオに自転車で来い』と命じて来させる」というしょうもない企画を実行した回があった。その回の途中、スタジオからハギに電話をかけて経過をたずねるという場面で、


爆笑問題・田中「どうなの、ハギ番組終わるまでに間に合いそうなの?」
キリセン・ハギ「わかりません。ダメかもしれません。」
爆笑問題・太田「じゃあ高速に乗って来いよ。」
キリセン・ハギ「乗れませんよ!」


というような(正確じゃないよ)やりとりがあった後、爆笑問題・太田が「そこは『乗れませんよ』じゃないんだよなあ。『高速道路に乗ったからといって速く走れるわけじゃない』っていうことを言わなきゃいけないんだよなあ。」的な発言をした。というようなことがあって、爆笑問題ファンかつ「カーボーイ」のヘビーリスナーであった、すなわち過度に太田というキャラクターに感情移入していた私は、それを聞いて「なるほど、ダメ出しとはこのようにするものなのだなあ。」と、何の役にも立たないことを思ったり、次のようなことを考えたりした。


爆笑問題・太田の発言『じゃあ高速に乗って来いよ。』に対するキリセン・ハギの『乗れませんよ!』は、太田の発言がどこかおかしい、ということに対するつっこみとしては成立していなくもないが、そのおかしさをおもしろさに変える手助けにはなっていない。いうなれば、『太田さんそれって何か変じゃないっすか?』という、発言への単なる『違和感の表明』とあまり変わらない。太田は、この場合発言のどこがおかしいのかを『説明』するのがより適した方法である、と言いたかったのではないか?」


よく考えるとそれほどきれいに二つに分類できるわけではないのだが(というか上の例もきれいに分類できているわけではないのだが)、「つっこみという行為を、おかしな事象に対する『違和感の表明』あるいは『説明』に分類してみる」というのはけっこう興味深い考え方なんじゃないか、と個人的には思っている。


もちろん、どうにも説明のできないおかしさに対して「違和感の表明」をすることは立派なつっこみであるのだが、私個人の意見としては「説明」ができることがつっこみの条件で、「違和感の表明」しかできないやつはただの「つっこみキャラ」を自任してるだけのやつだろ、と思っていた。のだが、最近ちょっと違うことを考えるようになってきた。それは、一見単純な「違和感の表明」の中にこそ新しい笑いの可能性があるのではないかということだ。たとえば南海キャンディーズ・山里などは「違和感の表明」のバリエーションが非常に豊富であるという点に新しさがあるといえるのではないか、とか、タカアンドトシの「欧米か」はほとんど「違和感の表明」でしかないつっこみだが、つっこまれる事象のほうを変化させるという意味では新しい手法といえるんじゃないか、などである。


と、書いていたら別に新しいことでもない気がしてきた。シャンプーハットの「違和感を表明しない」とかのほうがよっぽど新しいかもしれないし。それに、「説明」の変化バージョンである「翻訳・置換」という手法を確立したくりぃむしちゅー・上田はやっぱり一番すごいような気がするし。上田なら「じゃあ高速に乗って来いよ。」をどう「置換」するだろうか。「おまえはスラムダンクの谷沢くんか!その心は、『モータリゼーションの国ニッポンの―その高速道路に乗るだけで僕は―速く走れると思っていたのかなあ・・・」とかだろうか。ていうか、「高速に乗って来いよ。」というボケはおもしろいのだろうか。とか、そんなことが気になってきてすげーグダグダだ。結局何も論じてない。