「おもしろがる力」の功罪、そして僕は途方に暮れる


21日、電車の中で『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を再読了し、『素粒子』を観、帰って映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』公式サイトで「特報」を視聴するなどして以下のようなことを思った。


映画版『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(以下『ふぬかな』。Oによればそれが正式な略称らしい)』を観に行くとして、観に行ってよかったなあ、と思えるかどうかはたぶん佐津川愛美演じるところの和合清深に萌えられるかどうか、にかかっているのだろう。それは、「やっぱお姉ちゃんは、最高に面白いよ。」という清深のセリフが重要なものとして扱われているところからもわかる。この清深というキャラクターには異様なくらい「おもしろがる力」が備わっている。


話は変わって『素粒子』映画版である。この作品にはブルーノ(野崎歓訳ではブリュノ)がマスターベーションするシーンが頻繁に出てくる。映画版でも3回か4回は出てきたはずだ。それらのシーンはひどく滑稽であったり、ひどく虚しかったり、ひどく滑稽でありかつひどく虚しかったりする。特に1回目のマスターベーションのシーンは滑稽な側面を強調したつくりかたがされていて、私も思わず吹き出してしまったのだが、そのとき「ギャハハ!ギャハハ!」と大爆笑している客が前のほうにいて、「いくらなんでもおもしろがりすぎなんじゃねえの?」と思ったことを覚えている。その客はブルーノがマスターベーションするたびに同様に爆笑していた。まあ、1回目のシーンが頭に焼き付いていて、2回目以降も条件反射的に爆笑してしまうようになる、という仕組みはわからなくもない気がする、というか非常によくわかるし、私自身日常的にそういうことがよくある。そういうこと、というのは、「本来おもしろがられることを意図してつくられていないものを受け手側がおもしろいものとして受け取ってしまう」ことだ。


それ自体は別に悪いことじゃあないのかもしれないが、ときどき、「おもしろがる」というチャネルでしか事象を理解できないのはひどく歪なことなんじゃないか、とも思う。星新一のSFにあった(んだったと思うけど)、「なんでもボタン一つでできるようになった未来人」が「一本指に『進化』した」というエピソードと同じようなグロテスクさというか。なんでもかんでも爆笑してしまう人間、というのはひどくこの世界に絶望してる人間なんじゃないか、と思ってしまうような感じというか。『ふぬかな』の清深だって、お姉ちゃんを「おもしろがる」以外のコミュニケーション手段があったはずだろう、と思うし。全然まとまらないが、なんとなくわかってもらえるだろうか。機会があればもっと整理して書きたい。まあこれを書いている部屋の状況を見るに、私がいつかなにかを整理できるとはとても思えないのだが。


そんな部屋の中に埋もれてた山形浩生『新教養主義宣言』に次のような一節があった。

あるいは『オースティン・パワーズ』や『ムトゥ 踊るマハラジャ』で、最初から最後までひたすら義務的に笑い声をたてているやつがいる。そいつはどっかでこれが爆笑コメディだというのは読んできたようなんだが、自分で観ていて、どこがおかしいのか理解できないみたいなのだ。(p.13)


これは、「知識のベースというか文化の基盤」が「狭い」ために、いいものとそうでないものを確信的に弁別できない人々がいる、というような文脈で語られていることなのだが、私は、そういう人たちは文化水準が低いってことじゃなくて、なんでも「おもしろい」というチャネルで処理してしまう人たちなのじゃないかな、とも思うのだ。しかし結局は同じことかもしれないな。

新教養主義宣言 (河出文庫)

新教養主義宣言 (河出文庫)


さてこのカオスな部屋、今日はどうやって寝ようか・・・