誰もが誰かのメフィストフェレス

[雑記]詩的感興と味覚認識のアナロジー

たとえばちあきなおみ喝采」という歌がある。それを聴くおれたちの大部分は歌手
ではないし、ましてや愛する男が死んだという報を受けた直後にまぶしいライトを浴
びながら恋の歌を歌う必要に駆られたことなどないのに、「わたし」の気持ちがどの
ように動いたかについて手に取るように理解できる(あるいは、理解を飛び越えて感
情が共鳴しさえする)のはなぜなのだろうか。


会社の先輩(正確に言うなら「他部署の上司」か)と昼飯を食いながらそんな話をし
た。彼は実にインテリらしいインテリで、ときどき一緒に食事をするのだが、店に入
り、それぞれ頼むものを決めたあたりで「さて」とばかりに「最近収穫はありました
か?」(これ自体、四方田犬彦『先生とわたし』に出てくる由良君美の言葉のパロデ
ィだ)と尋ねられるその瞬間、実はおれはすこしく緊張するのであった。
おれは経歴に比して教養と呼べるものに欠けているという自覚があり、それを思考の
瞬発力でごまかしながらここまで来てしまった。それゆえ、なにかを読む際に必要な
前提がすっぽり欠落していたり、欠落しているという事実にさえ気づかなかったりす
る。この年齢になってそうした欠落を指摘されることは、いかに鈍感なおれであって
も、やはり怖いものなのだ。


といったわけで、だいたいおれの読んでいるようなものと先輩の読むものがリアルタ
イムで重なることはあまりないのだが、今回は「群像」2014年11月号に掲載された四
元康祐「偽詩人抄伝」を偶然に両者とも読んだところだったので、やや上品な感じの
和食店の日替わりランチ(最初の盛りが上品だからか、ご飯と味噌汁はおかわり自
由)を頼んだ後、それについて話すことになった。
「偽詩人抄伝」の主人公は、若いころ、詩(特に中原中也)に強く惹かれながら、ど
うしても詩を書くことができなかった吉本昭洋という男だ。吉本は大学時代に培った
語学力を生かして商社に就職する。赴任先の海外で余暇を使って詩祭に参加し、日本
にまだ紹介されていない詩人たちと交流するうち、彼はある倫理的一線を踏み越えて
「偽詩人」になっていく……という内容で、一読、フィクショナルに再構成された四
元の自伝、といった趣の中編小説である。
「これを半自伝的小説として読む際に、『偽詩人』という言葉は四元の自己韜晦とし
て使われていると考えられるが、では四元自身は『偽』でない『詩人』といえるのだ
ろうか?」というのが先輩の提出した問いであった。
これはおれ自身が折にふれて考えているテーマとも重なる重要な問いである。それで
は「詩人」とは何か?という話から、おれは結局まだ読み終わっていないボルヘス
『詩という仕事について』の詩の定義を引用し、詩というものが、書かれて固定され
た文字の連なりのなかではなく、それを読む人間の内的変化のなかに存するものであ
るとしたならば、詩の問題は受容体である人間の問題であり、もしかすると現代にお
いてなにかが詩であることは不可能なのではないか、という自説を開陳したのであっ
た。


この自説の問題意識の出どころは、10月25日(たぶん)の朝に見たNHKの情報バラ
エティ番組のなかの、味覚認識になんらかの異常があるこどもがめっちゃ多い、みた
いな話だと思う。下記に関連する「NHK『かぶん』ブログ」記事へのリンクを貼っ
ておく。

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/201265.html

まあサンプル数も少ないし、過去と比較していない(できない)のに「味覚の低下」
と言い切っていいのかは疑問なので、今後の調査の継続に期待するのだけど、

調査を行った東京医科歯科大学の植野准教授は、原因ははっきりしないものの味の濃
いものを好むことが味覚の低下につながっている可能性もあるとしたうえで、「味覚
が認識できなくなるとさらに味の濃い食品を好んだり食事の量が増えたりするため、
食生活の乱れや生活習慣病につながるおそれがある。子どものたちの味覚を育てるこ
とが必要だ」と話しています。

という部分は、不謹慎な言い方をすればとてもおもしろかった。味覚とは育てるもの
である、という部分が、だ。
濃い味というのはグラデーションのない味とでも言うか、「甘い」「しょっぱい」等
の単語とデジタルに対応するような味のことだろう。ニュアンスが塗りつぶされたよ
うな味のものばかり食べていると、おそらくは味覚は「育たない」。


おれは、これと同じ問題が、詩的感興というものの認識において起こりつつあるので
はないかと思う。
詩的感興というものも、おそらくは育てる(られる)ものである。飛躍していること
を承知で書けば、それは、ほとんど無意識下で受容されている流行歌の歌詞によって
醸成されるところが大きいのではないか。
つまり、みずからの意思によるところなく流し込まれる「歌詞」というものに触れる
なかで、人は何らかの感情を呼び起こされる。その繰り返しが、さまざまなニュアン
スを持った詩的感興を認識する感性をかたちづくるのではないか。
そしてニュアンスとは具体的細部のうちにしか存しないものである。たとえば「悲し
い」ことをただ「悲しい」と、「会いたい」という感情をただ「会いたい」という言
葉にするような「歌詞」ばかりを流し込まれていたら、それはニュアンスを塗りつぶ
された味覚のように、感情を認識できない感性の形成につながっていくのではない
か。


これは変化であって必ずしも低下や劣化ではないのかもしれない、とも思う。詩的感
興などは生きていくために必要のないものだとしたら、余分なものを感じないように
生きられることは生物としての進化なのかもしれない。もしかしたら味覚だって、も
う必要のないものかもしれないのだし。それをどこかグロテスクだと思ってしまうの
は、旧人類の傲慢であろう。


みたいな、比喩で話をスライドさせては最初のテーマを煙に巻くような、めんどく
せー話をしながら昼飯を食う時間が、おれはわりと好きである。少ねえな、と思った
ご飯をおかわりするのも忘れてしまうくらいには。