小説2009年3冊目

ベスター『虎よ、虎よ!』を読了。4-。詳細明日。
[1/6追記]
内惑星連合と外衛星同盟が対立する25世紀。内惑星連合の宇宙船<<ノーマッド>>は外惑星同盟の戦闘艦に攻撃されてバラバラになってしまった。しかしただひとつ無傷で残った気密室があった。その気密室で生存していた乗組員ガリヴァー・フォイルは、宇宙空間を半死半生で漂流することになる。約6ヶ月が経った頃、内惑星連合の宇宙船がそばを通りかかったのでフォイルは救助信号を出すが、その宇宙船は信号を無視して通り過ぎ、そのまま姿を消した。フォイルはなんとしても生き延びて自分を見捨てた宇宙船の乗員に復讐することを決意する…というような話。
なのだが、めちゃくちゃいろんなものが詰め込まれてる。ジョウントと呼ばれるテレポーテーションが一般化した時代という基礎設定の他、いま思い出せるだけでも、半死半生のフォイルを拿捕する宇宙の野蛮人「科学人(なんだこのネーミング)」、パイアなる謎の物質、サトラレテレパスアルピノで盲人の美女などなど、おもしろ要素だらけ。SF的に特に重要なのはたぶん後半に出てくる「共感覚」という概念で、これは音を光として感じたり、光を味として感じたり、味を触覚として感じたり…という現象のことで、要はマーボー丼からパワプロの味がしたり、はぐれメタルを見つけたとき特有の匂いがしたりするというようなことなのではないかと思う。違うか。しかし、スラムダンクでいうなら2年になりパスに楽しみを覚えたためプレイスタイルがすこし変わった仙道というか、なんでそれをシュートしないんだぜ、と思ってしまうような焦れったさが拭えない。それぞれの要素がひとつの点に向かって収斂して行くみたいな快感がないというのかな。『ダークナイト』鑑賞以降、すこし小さくまとまってしまってても完成度が高いというか構造的にきれいなものを高く評価したい気分になってるからかもしれないが、直近に読んだ『ハローサマー、グッドバイ』のほうが物語としての完結感をちゃんと感じられたような気がする。

当然ながらいいなあと思った部分もいっぱいあって、たとえば以下の引用部分。

この時代は奇形と、怪物と、グロテスクの時代であった。全世界は、おどろくべき悪意の道程をたどっていた。これを憎んだ古典主義者やロマンティストは、二十五世紀にひそむ偉大さに気づかなかった。彼らは発展という冷厳な事実を知らなかった――すなわち、進歩は極度の奇形の結合による、およそ対蹠的なものの不調和な合併から生じる。(pp.21-22)

「奇形的人間だ」
「あなたがたはみな奇形なのです。しかしいつでも奇形だったのです。人生は奇形です。だからこそ、それがその希望であり栄光なのです」(p.422)

最初の引用はプロローグから。次の引用は第二部終盤のガリヴァー・フォイルとバーテンダーロボットの問答より。この2カ所を念頭に置いて読むとラストシーンはより美しく感じられる気がする。ちなみにこの本のラストシーンを絵としてイメージすると、『虚航船団』のラストに上部構造を付け加えたみたいになっているのが非常に興味深い。ツツーイ御大は当然これ読んでるんだろうな。