川上未映子『ヘヴン』を読了。 かなりの傑作に近い問題作。少なくとも川上のキャリア的には転換点になる小説だと思う。詳細後日。

(追記)後日といいつつ書きたくなったので書いた。箇条書きメモだが、ネタバレ的な話もあり。これから読む人がいるだろうから畳んどく。
・「乳と卵」のときの文体は、ほとんど擬古文的に主語の省略をすることによって読者の読むスピードを制限する実験なのではないかと個人的に思っていて、その実験が行き着く先はどこなのかにも興味があったけど、今回ぜんぜん違う文体になっていたので自分が勝手に興奮しただけっぽい。今作は中学2年生の「僕」の一人称で語られるが、逆に主語を必要以上に明示している文が多い。自意識の問題か。村上チルドレン的文脈で語ることも可能だろうけどそれはつまんないと思う。

・全体の構成としてはボーイ(ネヴァー)ミーツガール小説。あるいはボーイリーヴガール小説(leaveね)。ガールであるコジマは「僕」のほうを向いてはいるが、厳密に方向が一致しているわけではないので決してmeetしない。と私は読んだ。ラストは、今ふうに言うなら旧世紀版エヴァンゲリオンの裏返し。

・百瀬という登場人物は、『野ブタ。をプロデュース』修二を苛め被害者側から描いたようなキャラクター。そう考えると『野ブタ。〜』はけっこう重要な小説かも。『ヘヴン』も内容的には宇野常寛的問題意識のもとで語られておかしくない。

・それにしても苛めの中心人物である二ノ宮というキャラクターはちょっと少女漫画すぎるよな。というのは海野つなみ『回転銀河』のイメージが強すぎるからだろうか。なんつうかスクールカースト最上位の人間がいじめっ子という図式ってリアルなの? それともそれを求めてる奴いるの? 酷薄な美少年が好きな層とかに。

・この小説で特にいいのは「僕」と母親(継母)の関係の描き方。映画『JUNO』におけるジュノと母親(継母)の関係の描き方を想起した。

・母親(継母)が出てくる場面で印象的なのは、

「病院はいついくのよ。あなたは素人なんだから専門家の言うことはちゃんと聞かないと鼻が腐るわよ」
 ある朝、母さんは僕に言った。僕はあいまいに返事をして玄関にむかった。気がつけばこのあいだ病院にいってからずいぶん時間がたっているような気がした。
「鼻が腐ったらね、つぎはどうなるか知ってんの」と母さんが僕の背中にむかってきいた。
「とれる」
「そんなんじゃすまないわよ。ただとれるんじゃなくて、もげるのよ」と母さんは注意深く言った。
「あなた、もげるととれるの違いわかる? もげるというのは」とまだ話をつづけようとするので、僕はまたあいまいに返事をしてからドアをあけてそとへでた。
(「群像」8月号p.86より)

という部分。ここは「人間サッカー」の名のもとに顔面を蹴られた「僕」が鼻から大量の血を流し、一度病院には行ったけどそのあと放っておいた、というようなシークエンスにつづく部分なのだが、小説全体の縮図を示しているようでもあり興味深い。「僕」が決定的な打撃をうける部分が鼻であること(日本語において、プライド、といって直截すぎるのであれば個人の尊厳の象徴とも言える部分)、そのことに直面したくない「僕」、直面しなければその帰結として「とれる」のではなく「もげる」鼻、そのことを背中に語りかける母、あいまいに返事をする「僕」。「とれる」と「もげる」の違いは、辞書的な意味はともかくとして「もげる」のほうが外的な(暴)力の存在を予感させる。それを継母が指摘するというのも示唆的。細かく読めばこのくらい重層的に描きこまれている部分はいくらでもありそう。

・あと、「夏のてっぺん」というフレーズは夏休み小説好きとしては反応せざるを得ない部分。今年めっちゃ使おう。余談だけど「〜せざるを得ない」の意味で「〜せざる負えない」って書いてる人とか、「AとBのあわい」というときに「間」と書くとこを「淡い」って書いてる人、ネット上にはけっこういると思う。

セリーヌ見つけて読まないと。