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「中央公論」11月号掲載、山田真哉「『さおだけ屋』の会計士が出版業界を斬る 街の本屋はなぜ潰れてしまうのか?」を読む。
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/10/10
- メディア: 雑誌
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非常に興味深い論考なので、業界関係者には一読をすすめたい。私個人としても、最近読んでいるものがこの論考を中心になんとなく繋がってきたような気がして何かを書きたくなったのでまずはメモ的なかたちで残しておこうと思う。
まず考えなくてはいけないのは、出版業においての売り物は雑誌や書籍ですが、これが「情報財」なのか「モノ」なのか、についてです。(「中央公論」2007年11月号p.178)
・ 「本質としては」『情報財』だが、これまで『モノ』「として扱」われてきたのが本という売り物だ、というのが山田氏の主張だ。これを読んで私が思い出したのは、『ムーン・パレス』において主人公マーコ・スタンリー・フォッグが伯父さんの蔵書を古本屋に売る場面である。
・ 保存状態の悪さを理由に安く買い叩こうとする古本屋主人に対し、書物の価値はその内容にあるのだから高尚な内容を持つ書物ほど高い値段が付くべきである、と考えるマーコ。価格交渉は平行線を辿るが、結局は金を支払う側、すなわち古本屋の店主が勝つ。
・ この場面については、世間知らずという意味における「理想主義」に凝り固まった若きマーコの姿を、後のマーコが自嘲気味に回想しているのだ、と読むのが常識的読解であるだろう。
・ しかし、今後「本は『情報財』である」という捉え方が一般に流通するようになったら、この場面の持つ意味は変わってくるだろうなあ、と思う。個人的には、『情報財』という単語の選び方が適切かどうかは措くとして、「内容に対価を支払う」という考え方を受けいれる準備はできているつもり。
「モノは要らない」という時代に、「モノ」としての本は売れません。では「情報財」を「情報財」として売ればいい、ということになるのですが、問題は、それが非常に難しいのです。
出版業界にそのノウハウがないことに加えて、そもそも人類は有史以来、本に限らず「情報」という形のないものにお金を払うという習慣がついていないんですね。(「中央公論」2007年11月号p.179)
・ ここに関しては違和感を拭えない部分もあるが、大筋では重要な指摘だと思う。
・ 違和感の正体をごく大雑把にまとめると以下のようになる。ここで指摘されている問題を私個人が興味あるジャンルに限定して考えるとき、「われわれは『物語』に対価を支払うことができるのか?その対価はどのように決定することができるのか?」という問いが生じる。しかしその前提として考えるべきは、「『物語』とは『情報』なのか?」という問いではないのか。
・ 小川洋子の『物語の役割』の前半では、「防衛機制としての『物語』」ともいうべき考え方が示されていた。ユダヤ人の選民思想のような、現実を受容しやすいかたちに変化させる道具としての「物語」のことである。この理解の仕方はある程度説得的ではあるが、私は好きじゃない。
・ なんでかというと、この考え方を受容すると、「物語」を求める人間は現実世界が辛いから「物語」に逃避しているだけなんだ、ということになってしまい、そうなると物語大好き人間の私は現実世界が辛いことだらけのかわいそうな人間ということになってしまう。
・ つまり、「防衛機制としての『物語』」という物語では、私自身が救われないのだ。そんなのはいやだ。眠くて感情的になってきた。
・ 最後に『作家の読書道2』から、町田康の談話を引用する。この言葉を自分の言葉に置き換えることができたら、「物語」とはなにか、という大きすぎる問いにも答えられるようになると思うんだが、難しい。
…読書というのは、もっと深い体験だと思います。瞬発的な知識ではなく、じわじわと嫌な形で体にまわって、二日酔いのようになった状態でもう一度、現実に帰っていかなければならない。それが読書だと思います。(『作家の読書道2』p.247)
[追記]
「物語」とは何か、について考えるためのテキストとして、光文社のPR誌「本が好き!」に連載されているひこ・田中「子どもの物語はどこへ行くのか」がすごく重要な気がしている。なんとかしてバックナンバーを読みたい。