心得ているということ

 

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

 

 「詩とそうでないものは何によって弁別されるのか」というのは、おれが高校生くらいのときから折にふれて考えているテーマで、それに関わる文章は積極的に読んでいきたいと考えている。

この本はボルヘスによって行われたハーヴァード大学ノートン詩学講義の記録で、「皆さんも暗誦しておられるはずです」「暗記しておられるはずです」「(こういう事柄については、皆さんのほうが私より遥かに詳しいと思いますから)」等、ぐいぐいと聴講者(読者)にプレッシャーをかけてくるのがおもしろい。ただ、けっこう最初のほうから意味を取るのに苦労する記述が多くて、読み進めるのに時間がかかる本であるという印象。翻訳の問題なのかもしれないけど。たとえば下記の引用部。

詩の「初めて」の読みこそ本物であって、以後はその折りの感覚が、印象が繰り返されると信じられがちですが、私に言わせれば、それは単なる思い込みであり、記憶の単なるまやかしであり、今のわれわれの情熱とかつて抱いた情熱の単なる混同です。つまり詩は、一回限りの新しい経験であると言えるでしょう。私が一篇の詩を読むたびに、その経験が新たに立ち現れる。そして、これこそが詩なのです。(p.14)

詩的感興は読者たる我々がその詩を初めて読んだときにのみ立ち現れる、ということを言っているんだろうと理解しているけど、そうすると引用部の最後から二文目の意味がよくわからない。「私が一篇の新しい詩を読むたびに、その経験が立ち現れる」だったらよくわかるんだけど。

それはそれとして、こういう本を読むときには「詩」というものをどのように定義するのか、というところをまず押さえるのがキモであると思っているのだけど、この本では下記のようにうまいこと体を躱されてしまう。

例えば、詩を定義しなければならないが、何となくあやふやで、自信がもてない場合、私はこんな風な言いかたをするでしょう。「詩は、巧みに織りなされた言葉を媒体とする、美なるものの表現である」。この種の定義は、辞典や教科書には十分かもしれませんが、われわれ皆にとっては、やや説得力に乏しい気がします。つまり、もっと大事な何かがあるはずです。その何かに励まされて、われわれは詩を書くことを試みるだけでなく、詩を享受し、詩のことなら何でも心得ているという気にもなるのです。

これこそ、詩とは何であるかを、われわれが心得ているということです。非常によく心得ているがために、かえって他の言葉で定義できない。コーヒーの味を、赤い色を、黄色を、あるいは怒りの、愛の、憎しみの、日の出の、日の入りの、愛国心などの意味を、われわれが定義できないのと同じです。こうしたものは、われわれの内部に深く根ざしているがゆえに、そのわれわれが分かち持つ、ありふれた記号によってのみ表現され得るのです。(pp.30-31)

定義できないけど、それこそが「詩」が何であるかをわかっているってことでしょ?と。なかなかに熱い書きぶり(話しぶり)ではあるけど、そういう問題か?って気がしないでもない。おれが知りたいのは、学校の授業で「詩」というものを習って、なんとかそれっぽいように改行してみたり韻を踏んでみたりして書いた「何か」が、概念上の女子高生たちが鍵のかかる日記帳にひそかにしたためている「何か」が、なぜ教科書やそれ以外の本に載っている「詩」と同じようにならないのかということなんだ。